日本人の自己肯定感と教育について
- OVER20&Company メンバー
- 9月22日
- 読了時間: 11分
更新日:9月28日
2025年9月14日(日)、オンライン上に集ったZ世代の若者たち。今回のテーマは、現代社会で頻繁に語られる「自己肯定感は本当に必要か?」。謙遜を美徳とする日本文化の中で、私たちは自らをどう評価し、受け入れていけば良いのか。「自己」とは何なのか?存在するのか?現役大学生からアメリカで学ぶ博士課程の大学院生まで、多様なバックグラウンドを持つ登壇者たちが集結。それぞれの視点から「自己肯定感」の本質に迫る白熱の議論が繰り広げられた。期待と不安が交錯するリアルな会話の模様をお届けします。
※ディスカッションの様子を可能な限りそのまま公開しているため、事実と異なる発言がある場合がございますが、エニー生のリアルなディスカッションとしてお楽しみください【参加者(※すべて仮称)】
マコさん(モデレーター): 本イベントの進行役。北海道大学を卒業後、アメリカの大学院に在籍。移民と帰国子女の自己肯定感と教育について研究しているため、今回のトピックを選んだ。「自己肯定感は大事である;ハイ」、「自己肯定感はどうしたら上がる?; 家庭と教室での成功体験を積む教育」
マックスさん:アメリカの大学院博士課程に在籍。「自己肯定感は大事である;ハイ」、「自己肯定感はどうしたら上がる?;他者貢献の積み重ね」
タロウさん:カナダの大学に在籍。「自己肯定感は大事である;ハイ」、「自己肯定感はどうしたら上がる?;感謝を忘れない、大切な人とのコネクション」
タカシさん: 一橋大学大学院在籍。「自己肯定感は大事である;イイエ」、「自己肯定感はどうしたら上がる?;自己肯定感に拘らない」
ユイさん: 創価大学在籍。「自己肯定感は大事である;ハイ」、「自己肯定感はどうしたら上がる?;家庭と教室での教育、そして旅に出るべき」

テーマ1:「日本人と『謙遜』の文化」
その謙遜、本心ですか?
議論はまず、「日本人の自己肯定感は高いと思うか、低いと思うか」という問いから始まった。多くの参加者が「低い」と答える中、その背景にある日本特有の「謙遜の文化」が話題の中心に。果たして、私たちの謙遜は本心なのか、それとも社会的なポーズなのだろうか。
マコさん(モデレーター):まず、日本人の自己肯定感って高いと思いますか?低いと思いますか?
タロウさん:低いと思ってました。なんか日本にいた時って、僕もそんな高くなかったんですけど、「これをやっても意味がないんじゃないか」って思うような人が多かった気がして。
ユイさん:低いというか、謙遜の文化って日本にあるじゃないですか。そこと相性が悪そうだなってずっと思ってて。自己肯定感ありますかって聞かれても「はい、あります」って答えにくいんだろうなって。。。
マックスさん:面白いですね。じゃあもし、その謙遜の部分を取っ払ったとしたら、ユイさんは、自己肯定感はご自身で高いと思いますか?
ユイさん:そうですね、割と高いと思います。なんか自己肯定感って、存在してていいみたいな部分だと思うので。
マコさん(モデレーター):私は幼少期アメリカに住んでて、そこから日本に帰ってきた時にわかんなかったのが謙遜の文化で。自慢がダメみたいな風潮があったんですよ。自分のやってることを誇るのは何が悪いんだって。で、謙遜ってみんなが本気でへりくだってるものだと勘違いしてたんですけど、どうやらそうじゃないんだと。どれぐらいの気持ちで謙遜ってみんな言ってます?
マックスさん:本心では思ってないけど、社会的に言わなきゃいけないから言っちゃうって感じ?(笑)。結構言うんじゃないですか?僕、面白いと思うのが、日本語を勉強してるアメリカ人とかが謙遜を使ってるのを見て、「あ、この人すごい日本語学んでんだな」って感じるときもあるし。意外とみんな自己肯定感はそれなりにあって、プライドを持ってやってるけれども、アンケートでは低く答えとこうみたいな。だから僕自身はそこまで心配しなくていいんじゃないかなって思ってます。
テーマ2:「武士道に学ぶ『正しい謙遜』」
それは謙遜か、それとも自己否定か
「謙遜」というキーワードから「武士道」という言葉が飛び出した。かつての日本人が持っていた謙遜の精神と、現代の私たちが使う謙遜の意味合いは、果たして同じものなのだろうか。正しい「謙遜」とは何なのだろうか。
タロウさん:謙遜の話に戻るんですけど、違う意味で捉えてる人がいるのかなって。昔、武士道というものがあったじゃないですか。どんなに偉業を成し遂げても、まだ上を目指す志を持つ、みたいな。だからそれが謙遜と捉えられるようになってるけど、実は別で自分の中ではまだ上があるから頑張ってるだけ、みたいな。
マコさん(モデレーター):うんうん。
タロウさん:それを謙遜だと思ってたんですけど、今の世の中って、何か簡単なこと成し遂げたとしても「いやいや私は全然です」みたいなのが美徳みたいに言われてるじゃないですか。でも元々そういう意味で謙遜ってあったんじゃないんだろうなって思っていて、多分そこがズレちゃってる。元々自己肯定感がある上での、さらに上を目指せるっていう上での謙遜だったのに、謙遜するのが当たり前で、自分を肯定することが悪いことかのように。。。
マコさん(モデレーター):あー、なるほど!!
タロウさん:その上で、僕は自己肯定感あっても全く損じゃないんじゃないかなって思ったんですよね。
テーマ3:「自己肯定感は『必要』か『不要』か」
幸せの物差しは一つじゃない
議論は核心へ。「そもそも自己肯定感は必要なのか?」という問いについて、参加者の意見は真っ二つに分かれる。「あった方が楽に生きられる」という意見に対して、「過大評価されているのでは」という鋭い指摘も投げかけられた。
マコさん(モデレーター):では、議論も徐々に熱くなってきたところで、本題にいきたいんですか、これまでの議論もふまえて、なお自己肯定感は必要だと思いますか?それとも思いませんか?
タカシさん:僕は、自己肯定感なくてもいいんじゃないかっていう派で。個人的には過大評価されてるコンセプトな気がしていて。あまり無くても別にいいんじゃないかなと。ある人はあってそれを一つの武器にすればいいと思うんですけど、無い人は持つことを目指すべきではないのかなって。
タロウさん:僕は個人的には結構大事かなって思っちゃってました。どうせ生きるんだったら自己肯定感が高い方が楽に生きられる気がします。
マックスさん:自己肯定感が必要か不要かの議論って、生きる意味みたいなところに繋がってきませんか?自己肯定感が低くてもいいっていうのは、何をするにおいて低くても問題ないと思っていて。逆にタカシさんは、何をするにおいて高い方がいいと思ってるのか。キャリアなのか、自己実現なのか、それとも幸せに生きるってことなのか。
タカシさん:僕個人としては、自分の幸せとかも正直、過大評価されてる気がしていて。自分がハッピーになって、キャリア上がって、成果出して認められてみたいなのって、個人的にはその先がないというか、「いや、だから何?」って思っちゃうんですよね。結局、自分の寿命を超えたところとか、自分の範囲にとどまらない何かを生み出して初めて意味があるっていう感じを抱ける。
タロウさん:いやぁ、面白いなと思って聞いてたんですけど。自分の良いところがあって、自分のクズな部分もあって、でもそこを認めた上で、それでもやっぱり自分のクズなとこ含めて「自分面白いな、好きだな」ってなっちゃってもいいんじゃないすかね。
タカシさん:僕が思うのは、それって自己受容(セルフアクセプタンス)に近い気がしていて。自己肯定感のポイントは「包括的評価」かつ「肯定的評価」だと思っていて。それを持ってる人は大きな武器だと思うんですけど、元々持ってない人が獲得しようとするっていうのは、どうなのかなって思うし。日本っていう文脈に限って話すなら、あまり求めるっていう基準を導入しない方が社会のためなんじゃないかと思ったりするんですね。
テーマ4:「西洋的な価値観 vs 東洋的な価値観での『自分』とは何か」
固定された「個」か、流動的な「関係性」か
「自分を持て」とは言うけれど、その「自分」とは一体何なのか。議論は、アイデンティティの根源を問う哲学的な領域へと深化していく。SNSが発達し、他者との比較が容易になった現代で、「自分」というコンセプトそのものから一度離れてみてはどうか、という斬新な視点も提示された。彼らは自己肯定感を高めるために結局何をすべきなのか、という議論から始めた。
タカシさん:そもそも「自分」っていうコンセプトも、僕、あんまりしっくりきてなくて。自分っていう枠組みを肯定する必要は全くなくて。もっと自分を分解して、「ここは肯定できるけど、ここは自分クソだな」みたいな、もうちょっとニュアンスのある判断の方がいいんじゃないかっていう。
タロウさん:自己理解が一番手っ取り早いんじゃないですか?土台を作ってない人にとっては。
タカシさん:西洋的な自己って、自分という物体があって、そこに色んな側面があるっていう捉え方だと思うんですけど、東洋的価値観ってもっと、事象の連続としての自己みたいなところがあるのかなって。そうなってくると、絶対的な自己っていうものがないので、その場にあった自己肯定感を持てればよいと考えています。
マックスさん:それまさに、西洋哲学の行き着く先のキリスト教とかと、我々東洋系の仏教とかタオイズム(道教)とかの違いだと思ってて。西洋的なところって、人間は生まれながらにして罪深いっていう「人間否定」から入っていくんですよね。で、東洋的な価値観って「人間肯定」から入って、みんな良い心を持っている、だから受け入れていこうっていう。アプローチが全く違う。
マコさん(モデレーター):私も自己って究極のところ無いのかなと思ってて。私、サカナクションの「アイデンティティ」という曲がずっと好きで、小中高とかって別に自分のことなんて考えたことないし、社会や周りと全く一緒なのがいいってされているのに、なんでいきなり就活とかで「人と違う突出している所はどこですか」って聞くんだっていう。その矛盾があるよねっていう。。。
タカシさん:社会的なモビリティ(流動性)みたいなのも大事な要素な気がしていて。付き合う人を選べるっていう状況だと、どうしても自己の境界がはっきりしないと生きていけなくなっちゃう。だからモビリティが高まると、自分の境界をはっきりさせないといけなくなるっていう側面があって。だからこそ西洋的な自己肯定感が重視される背景があるのかなと。
マコさん(モデレーター):なるほど。じゃあ、結局自己理解ってどうすればできるんでしょう?
マックスさん:僕、自己理解って鏡を見ることだと思ってて。鏡で自分の顔を見るじゃないですか。でも、それも本当の自分じゃないですよね、鏡に映った虚像でしかないから。だから本当の自分の顔を自分で見るのって、死んでも不可能なんですよ。でも、色んなリフレクション(反射)から「自分ってものなんだろうな」っていうのを常に考え続けるのが人生なのかなって。
ユイさん:そうですね、通過点みたいな。人間、一個の自己があるわけじゃなくて、いろんな事象が通っていって、インプットされて、それが出されていくだけみたいな。リフレクションって、何が入ってきたのかなって見るぐらいしかできないのかなって思います。
余談:議論を終えて
多様なZ世代、それぞれの現在地と未来への期待
白熱した議論が一段落し、話題は参加者それぞれのバックグラウンドへ。教育、経済学、経営学、社会科学、そして航空宇宙工学。専門分野は違えど、知的好奇心と探究心という共通項で繋がった彼らの素顔が垣間見えた。
議論の深さと参加者の質の高さに、アメリカから参加したマックスさんは感銘を受けた様子だった。彼の言葉からは、このコミュニティへの期待と、日本の若者たちの可能性を再発見した喜びが示された。
マックスさん:いやあ、面白いね、この会。こんなに白熱すると思わなかった。
ユイさん:ね、めっちゃ面白いですよね。
マックスさん:いや、面白い。こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、日本の若者ってこんなちゃんと考えてんだなっていうのを、なんかすごく思って。
マコさん(モデレーター):いや嬉しいです、それ。
マックスさん:日本から出て海外に行くと、日本のことを再評価するんですよね。で、こうやって日本の大学生とかと話して、「みんなで20代から世界変えようぜ!」みたいになると、ちょっとみなぎってくるものがあるよね。
一同:(笑)
マックスさん:いやなんか、聞いてて頼もしいね、本当に。
「日本の若者はこんなにちゃんと考えているんだ」。海外から見た日本の大学生のイメージと、実際にZ世代のリアルな声に触れたことで生まれた嬉しいギャップ。マックスさんのこの言葉は、今回のディスカッションの価値を象徴しているかのようだった。異なる場所で、異なる学問を究める若者たちが、一つのテーマについて本気で語り合う。その熱量とダイバーシティが、日本の未来を動かす原動力になることを願う。
